河野太郎 vs 安倍晋三

2006.08.07

安倍晋三著「美しい国へ」には致命的な欠陥がある。
この本は、あのアカデミー賞に輝いたミリオンダラーベイビーのあらすじを暴露してしまっている。
あーあ、あの映画観たかったのに、結末がわかっちまったぜ。
ミリオンダラーベイビーをこれから観るつもりの人は、「美しい国へ」を読んではいけない。

それはさておき、なぜ今、河野太郎なのか。
まず第一に、河野太郎は年金の抜本的な改革を訴える。それに対して安倍晋三は、現行の年金制度礼賛である。
もちろん彼も「最低限度の生活は国がきちんと保障したうえで、あとは個人と民間と地方の裁量でつくりあげてもらう」と述べているのだが、最低限の国の部分は保険料方式がよいという。
しかし、保険料方式にすれば必ず未納問題が出るわけだし、社会保険庁という税方式ならば必要ない組織を温存しなければならなくなることに対しては何も言っていない。
美しい国へのなかで、「今のままの保険料水準と給付水準をつづけていけば、これからはもらう人が増えるのだから将来はどこかで払えなくなってしまう。破綻 するというのは、このことだ。だからそうならないように、保険料をどのくらい上げて、給付水準をどのくらい下げたらよいのか、という議論をしているのであ る。」という一節がある。少子化が進展する中でこれをやるから、保険料は上がり続け、年金は切り下げられ続け、年金に対する信頼がなくなるのではないだろ うか。
少子化の中では賦課方式はかならず受給額切り下げか保険料の負担増になる。厚生年金は積立方式に移行させるべきである。
年金改革をやるならば河野太郎、年金制度に満足ならば安倍晋三なのである。

第二に、教育である。
河野太郎も安倍晋三も私学も含めた全国一律の学力調査を実施し、その結果を公表するべきだと考えている点は一致している。
さらに多様な人材を教育の場に取り込み、競争を生み出し、教師の質を高めるべきだという点も一致している。校長の権限の拡大と保護者の参加にしても方向性は同じだ。
河野太郎と安倍晋三の違いは、河野太郎はこうした改革を市町村に権限と財源を与えて行わせ、ふるさと税の導入で地域で義務教育のレベルの競争をさせようとしているのに対し、安倍晋三は国が改革を主導するべきだと考えている。
偏差値教育にしろ、ゆとり教育にしろ、文部省が画一的に教育内容を押しつけた結果、全国全てが誤った。
市町村に権限を与えることは多様性につながる。
全国一律テストを導入して、国主導で教育改革をやれば、必ず全国的にテストの点数至上主義になる。市町村に主導権を与えれば、統一テスト糞食らえ、我が町はそれよりも人間性重視だという地域も出てくるだろう。
国の改革を信用するならば安倍晋三、教育に多様性を求めるならば河野太郎である。

第三に外交である。
中国に政経分離を求めると安倍晋三は言うが、共産主義国家に政経分離を求めてもそれは無理だ。経済は体制の道具なのである。
中国とは政経不分離のなかでどうつきあうか。中国から何を求め、それをどう手に入れるかということを戦略的に考えなければならない。中国に対して強いこと を言って溜飲を下げていても国益にはならない。中国とつきあいながら中国の日本に対する依存を多方面にわたって高めていくことが長期的に必要なのだ。
日中関係以外の部分では、安倍晋三は中央アジアとトルコとの関係強化を明記している。河野太郎は中東との関係強化を掲げている。ここには若干の違いがある。
安倍晋三と河野太郎が大きく共通しているところは「日本の国柄とその理想に共鳴して、子供を日本で教育したい、あるいは日本人になりたいという人がいたなら、大きく扉を開かなければならない。それはとりもなおさず、日本のダイナミズムにつながるからである(美しい国へ)」
まさにその通りである。
昨今の外国人労働者をめぐる議論では、外国人を入れるかどうかという議論よりも、日本に来た外国人を将来的に日本人として受け入れるという可能性を広げる のか、それとも来日した外国人労働者は全て期間限定で国外に退去させるのかという対立軸が最大の争点になっている。こうした問題も総裁選挙で議論するべき なのだ。

総裁選挙を政策議論の場にしようではないか。



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