2001年12月25日号-2
2001.12.25
アフガニスタン出張記 下
12月21日(金)
同室の塩崎さんに、誰も知らない秘密があった。なんと寝言を言いまくるのだ。最初、大声で「一体、説明責任はどうするんだ!」と突然、怒鳴るので、ぶったまげたが、ご本人はいたってすやすやとお寝みになっていらっしゃる。夜中にさらに二回、一度は三行ぐらいにわたる長ーい寝言。
国連の全ての機関が集まっているUNハウスに出かけては、国連機を飛ばして、着陸させろと交渉する。なにしろ、我々は国連機をチャーターして、一人往復26万円もお金を払っているのだから、国連は飛ばす義務があるのだが、翌22日が暫定政権発足にあたり、関係者がカブールに終結するため、飛行機が足りない。しかもこの後はクリスマスだから、国連機が足りない状況は、悪くなっても良くはならないだろう。
滑走路の穴の件で米軍と掛け合うと、昨夜、国際赤十字の飛行機と米軍の輸送機がちゃんとその滑走路に着陸しているのだから、問題はない。
パイロットが新米だったのだろうと、米軍は問題ないの一点張り。
そこで我々としては、一、国連機を待つ、二、カブールまで陸路を走り、そこで国連機の空席待ちをする、三、カブールまで陸路を走り、さらにパキスタンまで陸路で出る、四、車でウズベキスタンの国境を越えてテルミズまででて、そこから空路日本に帰る、五、北部同盟のヘリコプターをチャーターし、カブールまで出て、国連機を待つ、というオプションをあげて検討する。カブールまでの陸路は危険だし、北部同盟のヘリコプターも、同じぐらい危険だろう。ウズベキスタンのテルミズまでは陸路で一時間、しかもその晩にタシケントまで出る飛行機があり、タシケントからはソウルまで直行便がある。これが一番良さそうだが、問題はウズベキスタンの国境でビザが出るかどうか。衛星電話で外務省に連絡し、我々の計画を話してウズベキスタンの国境でビザが出る可能性があるだろうか、と尋ねると、即座に、危ないからマザリシャリフを動かないでください、ガチャン。結局、外国で窮地に陥っても日本の外務省は助けてくれない、ということを再確認しただけ。
国境までは、ドスタム派の兵士の護衛もあるので、一か八かテルミズまで出ようという意見もあったが、NGOのリーダーが、国連機を待ちましょうという決断をし、一番詳しい彼がそういうのであればと、それに賭ける。飛行機は二時に来るはずだが、一時半になってもまだイスラマバードを出ていない、いや、まだどの飛行機にするか決まっていない等と怪情報が飛びかい、空港でひたすら祈っていると、東の空に飛行機が。昨日のパイロットと違って腕が良かったのか着陸し、それに乗って無事にイスラマバードへ脱出。
振り返ってみて驚くのが、タシケントからソウルまで直行便が飛んでいること。この地域から日本に帰るには、あちこち乗り継ぎしながらでなければ帰れないのだが、韓国は着々と直行便を中央アジアに飛ばしている。アジアのハブ空港争いは、単に飛行場の施設だけの問題ではない。
イスラマバードのマリオットホテルで記者会見を開き、その後、部屋で久しぶりの熱いシャワーを浴びる。生き返った。
12月22日(金)
NGOのイスラマバードオフィスを訪問する。みんなイスラマバードの高級住宅街の一軒家を事務所にしている。ジャパンプラットフォームは、旧ビルマ大使公邸、ピースウィンズジャパンは旧インドネシア大使公邸を丸ごと借り上げて、事務所または事務所兼住居にしている。家賃は月に十万円ぐらいだそうだ。どちらの事務所にもきちんとガードがついていて、安全確保はしっかりやっている。
イスラマバードでは、金曜日が半日勤務、土曜日が出勤、日曜日が全休というのが基本的なスケジュールだそうだが、国連関係の機関は金曜日出勤で土、日を休んだり、なかなか仕事をするにも日程調整が大変そうだ。
12月23日(土)
夜の直行便がとれたので、北京経由で成田へ帰る。
ピースウィンズジャパンのスタッフのすみこも同じ便で帰るのでよろしくといわれ、てっきり日本人の女性かと思っていたら、筋骨隆々としたクルド人の男性で、大笑い。イラク北部でピースウィンズの現地スタッフとして働いていて、日本に出張したところでクルドの内戦が始まり、祖国に帰れなくなってしまったそうだ。日本で難民認定を受け、日本政府が出している難民のための旅行証明書をパスポート代わりにしている。
現物を初めて見せてもらった。日本からどの国に出るにも、いやトランジットをするためにも、必ずビザを取らないといけないため、緊急支援のためにさっと日本を旅立ってというわけにはいかないとこぼしていた。
24日午後遅く、着。
外務省の無力、無気力、無能力を実感する。資源のない日本が生き残っていくためには、身体を張った情報収集が必要だ。イスラマバードの大使館のスタッフがアフガニスタンに行かない言い訳が、なんと飛行機がとれないから。UNの飛行機を自腹でチャーターしてマザリシャリフに入る我々の目の前でそれを言うのだから、あっけにとられる。
マザリシャリフにいるNGOのスタッフに、どういう情報をどのくらいの頻度で外務省に出すのか、とたずねると、困ったような顔で、最初は無償資金課に情報を入れてという話もあったのですが、そのあと何かうやむやになって、結局、今は何も...。
それにくらべて、アメリカの外交は凄い。こんなことがあった。アフガニスタンの国連機関の調整役であるUNOCHAの北部地域のトップと話をすると、アフガニスタンの難民を帰還させるためには、2002年の1月に小麦のタネをまけるかどうかが勝負だ、と言う。もしこの種まきができれば、収穫と同時に難民の帰還を始められる。しかし、この時期を逃すと、2003年の種まき、そしてその収穫まで帰還はできない。
だから、なんとかこの一月の間に小麦の種まきの準備をしたい、と訴えてくる。日本は、米なら何とかなるが、小麦となるとどうかな、と答えると、いや、タネは既にアメリカの穀物商社が用意を始めている。アフガニスタンの気候と土地にあうタネをちゃんと選んでもらっている。だから、日本には、それを購入する資金を援助して欲しい。おいおい、ちょっと待ってくれ。それじゃ、日本の金がアメリカの商社のポケットに入るだけじゃないか。アメリカは、アフガニスタンを爆撃しながら、すでに戦争の後に、自国の企業を儲けさせる算段までしているのだ。
我々が訪れたシベルガン周辺は、天然ガスが産出する。もっと北のトルクメニスタンでも同様だ。トルクメニスタンの天然ガスを海に出すには、西に行くルートの他に、アフガニスタンを縦断し、パキスタンで船に積み替えるパイプラインの仮想ルートがある。アメリカはすでに、この次を考えているだろう。同じ時に、日本の外交官は、パキスタンの港の四駆、二十一台の関税免除もできない。
国益のことをシビアに考える国家の外交と人間を考える市民、NGOの外交の両方が、これからの日本には必要だ。しかし、今の外務省は、国家の外交を遂行する能力はなく、市民、NGOの外交の邪魔をする存在でしかない。
二十五日に外務大臣、官房長官、総理に三人で報告にあがる。
我々が報告する直前に、外務省の局長や官房長が大臣室と官邸を走り回って、なぜ、四駆が二十一台、港から動けないかの言い訳をして歩いていた。この人達には、もっと大事な仕事があるだろうと思うが。局長などは、この問題を今朝初めて聞いた、と曰い、我々もぶち切れそうだった。
しかも、外務省の言い訳は、NGOが書類の提出を忘れていたからだ、という。うそつきめ。
総理にもはっきりと、このままでは一月のアフガン復興会議は成功しないと申し上げる。
マスコミがなんと言おうと、評論家がどう言おうと、総理がどっちもどっちだと言おうと、国民は、外務大臣を支持するべきだ。外務省は腐っている。
外務省の若手よ、戦え。腐っているのは罪だが、腐っているのを見過ごすのも罪だ。