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ごまめの歯ぎしり ハードコピー版

第30号 最低限に必要なこと

まず義務教育と高校で全ての子供が達成するべき最低限の学力レベルを具体的に定めることが必要です。カギは「全ての子供が」と「具体的に」というところです。

 日本の全ての子供に義務教育で最低限、何を身につけさせるのか、高校では何を達成するべきかということをきちんと議論して定めるという作業は、決して派手なものではありませんが、教育を議論するときの基本中の基本です。

「強い人間力」とか「生きる力を身につける」などといった抽象的な言葉ではなく、各学年に必要な学力を具体的に定義し、その目標を達成したかどうかをきちんと評価しなければなりません。具体的に定めるということはそれを達成したかどうかを試験で評価できるように定めるということです。

例えば高校を卒業するときに全ての子供が身につけているべき学力をきちんと定めようとするならば、高卒で就職する企業が求める学力をきちんと把握しなければなりません。また、18歳で社会に出て市民生活を営んでいくために必要な学力とは何かを把握しなければなりません。教育とは理屈抜きでそれ自体に価値があるものではなく、自分が生きるために、自分の将来に役立つものでなければなりません。

 高卒者を採用するときに企業は何を求めるか、普通科ならばどういう学力を、工業科ならばどういう学力を、商業科ならば...という労働市場の需要を教育側も把握しなければなりません。就職したときに企業が何を求めているかなどは教育には関係ない、教育とは教える側が教えるべきだと思ったものを教えるのだというわけにはいきません。

高校を卒業する時に、全ての生徒が身につけていなければならない学力をまずきちんと定義した上で、その内容を高校段階で学ぶもの、義務教育段階で学ぶものに分けていきます。そうすれば義務教育段階で週に何時間の授業が必要なのか、週五日制でよいのか、この量ならば週5日半必要なのか議論することができます。最初に教えるべき量を決めないで教える時間が充分かどうか議論をしても意味がありません。

そして、学年ごとに定められた最低限のレベルに達していない子供は進級させずにそのレベルが達成されるまでそこに留まらせなくてはなりません。一年をただ過ごせば次の学年に進級させる、年数が経てばところてん式に学校を卒業できるというのではなく、そこで達成するべき学力をきちんと身につけて初めて進級する、卒業するという原則を打ち立てなくてはなりません。

そのためには当然に能力別学級が導入されなくてはなりません。全ての子供が学び身につけるべきものとできる子供だけが学べばよいものというカリキュラムをしっかり分けることが必要です。義務教育における「全ての子供が身につけるべき学力」には結果の平等、つまり全ての子供がそれを身につける、が保障されねばなりません。しかし、それ以上の学力に関しては、機会の平等、例えば誰でも入学できる公立学校でもそのカリキュラムが教えられているなど、が保障されていればよいのです。

人生八十年という時代です。義務教育を一年、二年、人より長くやってもたいしたことはありません。教育とは子供たちが社会で生活していくために必要なことを教えることであるならば、社会で必要な最低限のことをしっかりと身につけさせておくべきです。

 

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