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太郎物語 第4章

太郎物語 第4章  
富士ゼロックス株式会社に入社・結婚・母の死

太郎は、86年2月に富士ゼロックス株式会社に入社します。千葉県流山市での新人研修時代には得意の足を生かし、コピー機を販売するための飛び込みセールス訪問件数の新記録を作ります。

太郎は、本社に配属になり、市場調査や競合各社の戦略の調査を担当し、また、当時の小林陽太郎富士ゼロックス社長のスピーチの原稿書きを担当します。
その後、企画部に異動になり、すぐに埼玉県の志木市で始まった日本で初めてのサテライトオフィスの実験現場の責任者になります。
富士ゼロックスは、1986年当時既に全世界のゼロックスとネットワークで結ばれていて、全社で電子メールがやりとりされる先進的な情報環境を創り出していて、サテライトオフィスの実験にはうってつけでした。当時はまだ9600bps程度の速度のモデムが百万円近い値段もする時代でしたが、志木サテライトオフィスの実験は大成功でした。

その後、太郎は国際事業部に異動し、さらにシンガポールに新設された地域本部、富士ゼロックスアジアパシフィックに出向し、二年間駐在します。シンガポールでは、コピー機やファックスの新製品のアジア地域への導入を担当しました。二年間にパプアニューギニア、ラオス、北朝鮮を除くアジア各国をまわりました。
このシンガポールでの二年間は各国経済の中での華僑位置づけやアジアのイスラム教の現実などアジアという地域を理解する上で、非常に貴重な二年間でした。

1993年に太郎は地元の部品会社に入社し、海外事業を担当します。自動車メーカーや電機メーカーからの半期ごとの容赦ない価格引き下げ圧力のなかで、コストダウンし、また新たな市場を開拓していくために必死でした。原材料の銅の価格が乱高下し、1ドル100円を割る円高の中で、中国進出を決意し、一年に十数回中国に出張し、中国の北から南まで合弁相手を捜します。ようやく北京の東方電子集団と契約し、北京に合弁会社を設立します。

1993年12月に太郎は、長年口説いていた香と結婚します。新婚旅行はインドネシアのバリ島に出かけました。太郎は平塚から大磯に車で通勤していましたが、香は有楽町のモルガン信託銀行に務めていたため、平塚から電車で毎日、有楽町まで通勤することになりました。
しかし、95年のまだ氷もゆるむ前に、母武子の癌の再発がわかります。しかも検査で癌がわかったときはもうまったく手遅れでした。武子は築地のガンセンターに入院し、7月に帰らぬ人となりました。

太郎物語 第5章  新十五区からの立候補・初当選

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